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moonandoceanhawaii’s blog

ゆらゆらと 波にゆられて 思うこと

働くとは どんなこと?

スターマークを残してくださった方々のブログを 時々拝見しています。

その中に 働くって どういうこと?と書いていた方が いらっしゃったので

私なりに思うことを 書いてみようと思います。 

 

yoshifumi3.hatenablog.com

 

 

 

漢字を見ると 人が動いて働くという文字に なっています。

そこから思ったのは 動物は 食べ物を得る時に 動くのです。

ハンティングしなくてはいけませんからね。それと 木の実などの収集ですね。

それで 働くことの起源は 養うための行為ということかと思うのです。

じゃあ ハワイで暮らす私は どうか?と言うと 初夏には 庭で マンゴーが

取れるし パパイヤは 通年通して 収穫できるし、アボカドは 山に自然に

生えているし、魚は 友達が潜って 捕ってきてくれるし、アクアポニックを

するなら 自宅の庭で魚の養殖ができるし、葉物野菜は 栽培できるし、楽に 働く

ことができる環境です。

これが 寒い、雪の降る土地に住んでいる人は 少し 状況が違うと思うのですが

それでも ここでは取れないようなものを 収穫することができ、また 冬場は

雪の下の地面を 自然の冷蔵庫として利用し 根菜などを保存できますね。


それが 植民地支配によって 企業が大きく政治に介入し 資源の搾取が起こると

”働く”ことが 大きく変化していきます。

人々の生活は 企業の生産したものを消費することが 中心となり、情報も企業から

企業にとって 都合の良い形で 報道されるようになり これまで ”働く”だけで

よかった人たちの時間が 搾取され その人たちは お金という鎖で 繋がれてしまい

ました。搾取では イメージが悪いために 労働賃金という形で 還元されるのですが

そのお金は 消費という形で 企業に戻っていくサイクルが 出来上がりました。

もともとは 働くことは 常に自然を通じて 行われていました。

織物も蚕からとれる絹や 綿花からとれる綿、大麻からとれる麻などが 使われて

いました。

家を建てるのも 家具も 木から出来ていました。あるいは 石を積み上げて

塀を作ることができました。

牛やヤギを飼って ミルクを得ることができました。

自分の提供できるものと それらを交換することもできました。

 

が 企業が登場してから 人々は ビルの中で 仕事と 呼ばれることを するように

なります。机で電話の応対をしている人に 生産者の顔は見えません。

生産者が どのように 商品となるものを 作るのかは そこからは 見えません。

生産者からも 誰が それを 必要な人の手に届けるのかは 見えません。

私たちは たくさんの見えない壁と壁の間で 生きるようになりました。

壁は見えないのですが 壁があることで 世界は 遮られています。

が 壁自体は 見えないので 誰も 世界を分断して把握しているなどとは 気づか

ないのです。そして 見えないことをいいことに 企業は 壁にうまく隠れるようにし

て 勝手に 労働時間を8時間と決めました。

本来 人体の健康を考慮するなら 仕事は あさ10時に始めるのが 一番効率が

いいのです。また 労働時間も 6時間が 丁度いいのです。

それを 朝9時から 8時間としたところで 健康にたくさんの弊害が生まれました。

それを 残業という形で引き伸ばしたら 今度は 死ぬ人が出てきました。

人々は 保証と安心を求めた挙句 本来の ”働く”ことから 遠く 引き離されて

しまいました。

そして 企業に人生を捧げることが 誰もが選択するべきことでもあるかのような

信仰が 自然に浸透していきました。

 

が 食べるものを得られるなら 私たちは それ以上のことをする必要は 殆ど

ありません。

その以外の時間を 教育や コミュニティーでの活動に 使うことができます。

教育では 作物の育て方や 魚の取り方を学べば 食べられないことへの恐怖心は

減ります。コミュニティーでの活動は 川の掃除や お年寄りの住む家の修理や

共同ガーデンの手入れなどです。

新しい アイディアが出れば それを みんなで話し合う時間もあります。

 

確かに 住んで 着てということも 考慮しなくてはいけませんし 移動のための

手段も 必要でしょう。そうだとしても 今の時代の ”働く”は 金銭的に楽に

なったようでいて、そしてある意味 別の経験をするという意味でも プラスの

部分もあるのでしょうが 自然から 切り離されているという意味では 本来の

働きから ずれていると思います。

 

アボリジニーの生活を見ると お金が全く必要のないところで 成り立っています。

そうした集団は 以前はたくさんあったと思います。

が 植民地化により それらは 失われていきました。

それが ラットレースの 始まりでした。人々は 永遠にお金がある、ないということ

に心を左右されながら 死の間際まで そのことを 心配しながら時間を過ごすので

す。

 

企業で 定年を待って 退職金に 老後を保証してもらって生きるのも 人生でしょ

う。が その人たちが皆 正直に自分を生きているのか?といえば 必ずしも そう

ではないと思います。

だから 職場内で 同僚に対するいじめが起こったり、いがみ合いが 耐えなかった

り、それは 自分の生き様に 嘘をついてきたことの フラストレーションを ぶつ

け合うことで 帳消しにしているように見えるのです。

 

本来の ”働く”を 取り戻した時 私たちは 人生とは?などと 考える必要も

なくなるのでしょう。

なぜなら 人生とはその人の生き様そのもので 言葉で表現しなくても 目で

見ることができるからです。

 

そうしたことに 気づかなかった頃は お金を取りに行くような 働き方をして

いました。

が 今は 少しづつ 本来の ”働く”を 思い出しながら 現状の経済体制の中で

行き過ぎない 時間の切り売りをしています。

そうすると 毎日 取りの鳴き声が聞こえ、空の様子を伺い、時々 雨の匂いを

感じることができます。

 

働くという文字を 見る時 私には 人が 生き生きと 自然の中を動き回る

姿が 見えるのです。